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1950年〈昭和25年〉2月20日- 2020年〈令和2年〉3月29日
五黄寅 二黒寅 艮宮傾斜 0地点午未 再開生
人物
日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。東村山市名誉市民。
2020年になったばかりでした。コロナという得体の知れない感染症が日本に蔓延する初期の頃でした。いろいろな憶測とデマや噂が錯綜する中で、志村さんはコロナウィルスに感染して亡くなりました。その衝撃は全世界を駆け巡りました。皆ショックでなにも考えられませんでした。
いったん病院で検査をしたものの、自宅て待機させられ、その直後体調が急変して救急車で搬送されて数時間後に息を引き取りました。その間、面会もできないという状況でした。志村さんにお世話になった人々は、口惜しそうに「残念です」ともらすしかなかった。
そしてご遺体は誰にも会うことができず、そのまま火葬されました。この過程がすごく寂しい。生前元気に世界中を笑わせてくれた志村さんが、誰にも看取られずあの世へ逝くというのは、なんとも残念で寂しい限りです。そんな志村さんを鑑定しました。
寅年
才知に長ける決断力があり、良心に富んでいます。新しい物好きの気性がありますから、その性質を社会で生かして大成功を収める人もいます。しかし根っからの負けず嫌いの性質から他人の言うことを受け入れず、些細なことに怒り心頭するという残念な性質があります。
ふだんは大人しいのですが、イキナリ周りが驚くような豹変することがあります。比較的他人には、差別なく接しますが、いったん争いますと手に負えなくなります。争いに巻き込まれて仲裁に入ると、一方的に敵に対して恐ろしいほど喰ってかかります。
ですから、争いごとや仲間内の仲裁は向かないので、状況を傍観するようなポジションにいて落ち着きが必要です。冒険的なチャレンジや、投資や新規を好む傾向がありますが、飽きずにやり遂げられない性質があるので、最後までがんばれば身に付き、活用すれば斬新なアイデアと工夫で成功を収められます。
新しもの好きなので、すぐに飛びつくところがあります。良いか悪いかわからないまま、パッ見て行動に起こすのです。その結果失敗したりしますが、それは幼少期にそのようなちょっと「おっちょこちょい」な性格が目立ちます。成人して様々な経験をするとその性格が落ち着きます。ただ生来持って生まれた性質なので、意識しないとすぐに「飛びつく」クセを何度も繰り返します。
艮宮傾斜
本来は八白土星ですので、八白の影響が出ます。八白土星とは、東北の位置にあります。そこに本人の五黄土星があると、かなり頑固で偏屈な性質になります。それでなくても五黄の人は、九星のなかでもきわめてオリジナルで極めて独善的、ワンマンなところがあるのです。
一度「こうだ」と決めたことは、とことん追及するという良い意味での執着心がある。その傾向は徹底しているので、周囲はそんな姿を見ると離れていきます。不動産に縁があるのですが、家庭的には円満とは言えません。仕事と家庭のどちらを選択するか?と聞かれれば、仕事を選択するでしょう。五黄の八白傾斜に人は、このような性質から企業のトップや独立した社長に向いているのです。
再開生まれ
再開生まれの人は、何度でも繰り返す運命にあります。それはこの生まれの人の性質であって、呼吸をするがごとくです。ですから何度も繰り返す事をとがめられても、ムダです。それは生来持っている性質だからです。あえて言えば、この性質を本人が理解して充分納得できれば、この性質を変える事はできます。
しかし本質敵には無理やりなので、いつかどこかでまた同じ事を無意識に繰り返すのです。一種のアレルギーと同じで見た目は良くても、身体には合わない。それは身体にとって食品の成分が合わないからです。つまり本人の意識下では、避ける事が出来ても、無駄な抵抗となります。
0占命占い
1968年 18歳 開拓
付き人から芸能界デビューを経てドリフターズ入り。高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。由利徹、コント55号、ドリフ のいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校2年時に由利徹を訪ねて弟子入りを志願したが、断られている)。
雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っている。
1週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式にドリフのボーヤとして採用を告げられた志村は「じゃあ(高校)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った。
加藤茶の付き人となるも、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻 を認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人として、加藤家に居候する。
1972年 22歳 人気
井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。
動いて笑わす野球のネタや、ゴールデンハーフのネタ、高齢者向けに雲の上団五郎一座のお富さんなどを前座で披露している。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に
出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後、自衛隊出身の福田正夫を相方に迎えるが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅した。
1973年 23歳 浮気
志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した。当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。
1974年 24歳 再開
正式メンバーへ
荒井注が脱退し、4月1日にドリフの正式メンバーに昇格した。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、及びすわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと、加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。
1976年 26歳 充実
東村山音頭誕生秘話
当時、メンバーから東村山の田舎者扱いされていた志村は意地になって稽古中に東村山音頭を歌っていたところ、それが受けて舞台で試すこととなった。 初出は1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、
その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向だった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。
すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した。
1980年 30歳 開拓
また、沢田研二とのコント内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが人気を呼ぶ(詳細は#沢田研二を参照)。1979年には加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜」が人気を博した。
1981年 31歳 成長
ノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検
仲本工事、TBSプロデューサーの居作昌果と共に競馬のノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。
賭金が多額だった仲本と居作は略式起訴で罰金刑となったが、志村は賭金が1万6千円と少額だったことから起訴猶予処分になった。この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園のふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。
1985年 35歳 浮気
『全員集合』が終了
1986年 36歳 再開
『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、
『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。
1988年 38歳 充実
山中秀樹と共にニュース番組『デイトライン特別版』のキャスターを担当した。
1996年 46歳 人気
ゴールデンタイムのレギュラーから深夜枠で『志村〝X〟』『志村〝XYZ〟』『Shimura〝X〟天国』を2000年まで担当した。
2001年 51歳 背信
盗撮事件による謹慎が解けたばかりだった田代まさしが、男性宅の風呂を覗き見、および覚醒剤所持で再び逮捕されたことに対し、田代の芸能界復帰を支援していた志村は桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」と田代を突き放すコメントをした。
2004年 54歳 開拓
東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計や宝石類1,000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、のちに「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。
後に『天才!志村どうぶつ園』でこの事件が取り上げられた際、ペットの犬たちは人懐こいため泥棒に吠えなかったことが明かされ、「番犬にならない」と苦笑した。また、ホームセキュリティに加入していたにも拘わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。当時、志村は『発掘!あるある大事典Ⅱ』の収録の為、大阪に行っている最中に起きた出来事である。
2015年 65歳 清算
「一番のファン」だった実母が老衰のため死去。96歳没。ブログではたびたび「母に感謝す」と記していた志村は「天国からまだまだ応援見守って下さい」などのコメントを発表した。
2016年 66歳 開拓
肺炎で入院した事が判明した。これに伴い、8月20日および21日に予定されていた公演『志村魂』の大阪・新歌舞伎座公演は中止することになった。その後、8月31日に退院している。それまでは1日に3箱のたばこを吸うほどのヘビースモーカーであっが、
この件にショックを受け、その後禁煙をした。ただ、長年の喫煙習慣が一因となり肺気腫を患ったとされる。また、酒に関するエピソードも数多い一方で2018年に肝硬変と診断され、当時周囲に「バカ殿はもうできない」と弱音を漏らしていた。
2020年 70歳 人気
東京都内で開かれた誕生日パーティーで胃の切除手術を受けたことを告白。その際に志村は詳細を語らず、胃癌だったのではないかと出席者から心配の声が出たものの、所属事務所によると、健康診断でみつかったポリープ切除の内視鏡手術で1月に4日間入院していたとのことで、直接的に仕事に影響を及ぼすことはなかった。
2020年 70歳 人気
新型コロナウイルスへの感染と死去。
倦怠感を訴え、自宅で静養。同月19日に発熱と呼吸困難の症状が出始め、翌20日に医師による訪問診察で重度の肺炎と診断され、東京都港区内の病院に緊急入院となった。入院後、21日に人工呼吸器に切り替えた段階から意識はなかった。
最後に・・・・
—加藤茶
ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです。皆さんも身近に感じて、気を付けて下さるようお願い致します。
—仲本工事
ドリフも順番に逝く歳になったとは思ったけど、一番若い志村が長さんの次になるとは…。非常に悔しいです。
—高木ブー
志村早すぎるよ、俺より先に逝くなんて。3年前に、久しぶりにドリフでコントやった時、「高木さんも80歳過ぎて、頑張ってるんだから、自分も頑張らなきゃなぁ」って言ってたよね。また一緒にコントやりたかったのに。心より御冥福をお祈り申し上げます。
ドッドッドリフの大爆笑・・・🎵姉さんーさん母ーさんパパにママ・・・