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1922年〈大正11年〉5月15日
2021年〈令和3年〉11月9日)
日本の小説家、天台宗の尼僧。
本名:瀬戸内 晴美(せとうち はるみ)
作家としての代表作は、『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数。
1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞した。
大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生きた作家である。
はじめに
今月大往生で他界された、女流作家としても、尼僧としても有名な人でした。自身の著作の代表作ばかりで、人気もあり、宗教者として、指導者として迷える人々を導いてきました。そして講演会でも「瀬戸内流の説法を聞きたい」と全国各地から人々が押し寄せました。先日、99歳で大往生を遂げられました。
謹んでお悔やみ申し上げます。
本命星 -> 六白金星 戌
月命星 -> 二黒土星 巳
傾斜宮 -> 離宮傾斜
0地点 申酉 開拓生まれ
快活で活発。義理堅く、高潔な面があります。一度信じた信念、人、物事に熱中しますので、行き過ぎると他人との対立関係を生じる結果になります。一歩も下がらないので益々悪化する場面があります。しかし要領がよいのです。
パワーバランスが自分に不利に働くと思うと、すぐに下手に出ます。そのような要領のよさがあります。ただしこの傾向は、幼少時に見られます。人生経験のない幼少期では、干支の性格がそのまま表にでるのです。これを経験によって勉強し、修正していくものです。
また自分でこう「思ったこと」をすぐに口出すので、口は禍の元となります。ついつい言わなくてもいいことを言ってしまう。それが争いの元になります。一度このような関係になると、人気だったのに、人が離れていきます。
そこで自分の信念を貫き通すと、人の輪に入れないという偏屈になります。人の話に耳を傾けて、こころにゆとりを持つようにすべきでしょう。もともとは素直な人ですから、落ち着いて話せば良いのです。言葉に反応するのではなく、少し考えてから反応する癖を持つように心がけるべきでしょう。
自分より力がある相手に対しては、服従するのを当然とするが、相手が弱い立場にあると思うや否や、非常に高圧的になります。そのような裏と表がハッキリしている。しかし相手を間違えると途端に臆病となり、平身低頭になります。その身代わりの速さは周囲を驚かせます。
しかし本人はケロッとしています。その点は非常にドライな感覚と言えます。バックが大きければ大きいほど威張り散らす幼稚なタイプ、と様々な人生経験から学び、同じ趣向を持つ者同士が一緒になり、一つになって行動するというタイプに別れます。当然後者のタイプは人生の成功者となります。
経験から自分の欠点を克服し、長所を生かすことができる人は成功者となるのです。そして忠義が強いのです。いったん「この人」と決めたら、裏切らない義侠心が特徴です。人物で言えば、
忠臣蔵の大石内蔵助です。 あんがい単純な人なので、よく人に利用されてしまうというオチがあります。
九星では九紫火星になります。人より鋭い直感力と美的センスを持ち、情熱的で先見性があります。そして火の性質があるため華やかなものを好み、特に名誉や地位を求めます。頭の回転が早くいつも新しいものに挑戦して、すぐに飽きるという面があり、いわゆる熱しやすく、冷めやすいのが特徴です。
と同時に人間関係でも同じようなことが言えます。一目ぼれした相手に対し、つまらないことで大嫌いになります。その極端な性格は、周囲を翻弄させるでしょう。本人はいたって普通のできごとです。好き嫌いが激しい人なので、その性格を理解できないとお付き合いできない。
そんなちょっと気難しい性質を持っています。また時代性を読むのが得意です。独自のユニークな視点があるので、あきらめず、継続することで素晴らしい才能が開花し、大きな成果を期待できます。
0地点 申酉 開拓生まれ
南西、西方向は生涯において凶方向になります。開拓生まれの人は、元来備わったバイタリティあふれる人です。常に前人未踏を目指すのが常です。人と同じことが嫌いです。常に人と違う趣味を持つとか、誰も思いも付かない予測不可能を考えます。ですから、幼少時において、親は思い悩むでしょう。
「どうしてこの子は協調性がないのだろうか?」本質が他者とは違うからです。この傾向は幼少時において顕著に見られますが、成長するに従い、順応を身に着けていきます。しかし本質は、パイオニア精神があるのです。
生い立ち 開拓生まれ
徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷豊吉・コハルの次女、三谷晴美として生まれ、体が弱く、本を読むのが好きな子供だった。
後に父が従祖母・瀬戸内いとと養子縁組したため、晴美も徳島高等女学校時代に三谷から瀬戸内姓に改姓。
1942年 20歳 充実
東京女子大学在学中の20歳で酒井悌(1913-1992 徳島市生)と見合いして婚約。
1943年 21歳 背信
結婚し、10月に夫の任地北京に渡る。
女の子を出産。
1945年 23歳 清算
6月夫が召集、8月終戦と共に帰国。
1946年 24歳 開拓
8月に一家3人で徳島に引き揚げ、夫の教え子の文学青年と不倫。
夫に打ち明ける。
1947年 25歳 成長
秋に一家3人で上京。
1948年 26歳 決定
夫と3歳の長女を棄て家を出て京都で生活。大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。
1950年 28歳 人気
正式な離婚。
本格的に作家デビュー
東京へ行き本格的に小説家を目指し、かつての本名であった三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿し『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。
1956年 34歳 0地点
処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。
その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られる。
その後数年間は文芸雑誌からの執筆依頼がなくなり、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。
1959年 37歳 成長
同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載。この時期の小田仁二郎や元夫の教え子との不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』
1963年 41歳 浮気
女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。
1966年 44歳 充実
井上光晴と高松へ講演旅行、恋愛関係になる。
1973年 51歳 健康
井上との関係を絶つために出家。
51歳で今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺において天台宗で得度、法名を寂聴とする。
1974年 52歳 人気
比叡山横川の行院で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法(天台寺説法)として、法話を行っていた。満行後の行院の道場の板の間での記者会見に臨んだ時、初めて尼僧になったことを実感したという。
1987年 65歳 浮気
東北天台寺住職となった時点で戸籍名を寂聴に改め、寂聴名義での執筆活動を開始した。
人気作家となって以降
1988年 66歳 再開
『寂聴 般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。
1992年 70歳 0地点
一遍上人を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞した。
『源氏物語』の現代日本語文法訳でも、その名を知られている。
2007年 85歳 成長
館長を務める徳島県立文学書道館(徳島市)での講演で、加齢黄斑変性のため右目が大部分見えなくなったことを明かした。
2008年 86歳 決定
いわゆる「ケータイ小説」のジャンルにも進出。スターツ出版が運営するケータイ小説サイト「野いちご」に、小説「あしたの虹」を「ぱーぷる」のペンネームで執筆していたことを、9月24日の記者会見で明らかにした。
2010年 88歳 人気
脊椎を圧迫骨折し、半年間寝たきりの生活を余儀なくされる。
2014年 92歳 充実
2度目の圧迫骨折治療中の検査で胆嚢がんが発見されたが、医師からは90歳を過ぎて手術をする人はいないと言われたものの、瀬戸内は「すぐに取ってください」とその場で決断、手術は成功。通常使用量の倍の薬でも収まらなかった腰の痛みは、がん騒動のうちに忘れていたという。その後復帰。
2015年 93歳 背信
テレビ朝日「徹子の部屋」に出演。入院中には激痛に耐えかね、「もう神も仏もない」と語った逸話が明かされた。番組では、がんは完治、痛みも全くなく酒を飲んでいると語った。
2021年11月9日 99歳 健康
心不全のため、京都市内の病院で遷化。
99歳没。訃報は同月11日に公表された。
亡くなる約1か月前から体調不良のため、入院療養していた。
まとめ
99歳で大往生をされました瀬戸内寂聴さんでした。女流作家の先駆けとなったシンボリックな人物でした。運勢では、開拓生まれということで自ら起こしていくというパイオニア精神が旺盛です。起業やベンチャー事業にチャレンジする人が多いのです。
それは通常の仕事に飽き足らず、自ら実行することを人生の目標としているからです。34歳における0地点では、天国と地獄を味わいました。再開年においては、66歳でベストセラーをたたき出しました。再開とは、第二の人生を意味するのです。これにより女流作家の地位を不動のものとしました。